この「完全な真空」は、本当はこの世に存在しない本を、まるで存在するかのように出版社や作者名まででっち上げたうえ、それらの本それぞれに対する書評をまた自分で書いているというものです。ひちことでいえば、架空書評集ということでしょう。
16冊の架空の書物が取り上げられていますが、僕にとってはそれらのうちで、おもしろいものとおもしろくないものの差が極めて大きく感じられました。あまり興味がもてなかったのが、「親衛隊少将ルイ16世」や「白痴」のような、なにかスケールの異常に大きい大作の概略を示すようなものです。逆に、3度も4度も読んでしまったのが、「最高のSF作家」こそが書き得るというようなものです。
書き上げてもいない本を作り出し、それを今度は評論家の立場で好き勝手に批評し、そうしてできた本をまた同じ本の中で批評するとは、言ってみればなんともの書きとしてぜいたくなことをやっているのだろうと思わず感じてしまいます。
このように書評集の中でその書評集自体もとりあげるというのは、「再帰呼び出し」(リカーシブコール)を思い起こさせます。再帰呼び出し的なことは、この例に見られるように、単にプログラムの中の関数の呼び出しかただけに限定された話ではありません。ネーミングの中に見られるごく簡単な例を示すことができます。UNIXオペレーティングシステムの発展版にそのスペルを引っ繰り返したXINU(ジ−ニュ)というのがありますが、これは次の文章の頭文字をとったものだそうです。
" XINU Is Not Unix. "
研究室にあるUNIXマシンのひとつ(CPU はSPARC)の名前を、SPARC を引っ繰り返したCRAPS としているのですが、その名前の由来もむりやりこの XINU のように説明するならば、
" CRAPS Runs A Processor Sparc. "
(CRAPS はSparcプロセッサを駆動する)
とでもいえばよいのでしょう。
まあとにかく、この小説の内容を紹介することにしましょう(無駄とわかっていても)。この本の内容はないのです。といっても、真っ白な紙が並んでいるのではなく、しっかりと文章が並んでいるのです(もちろん何もないと千回書かれているわけではありません)。しかし、何も語ってはいないのです。
冒頭の文は「列車は着かなかった」となっています。そして、「誰か」が現れなかった後、語りは非人称のまま、時が春でもなく夏でもなく、無重力空間における愛されない女に関する考察によって第1章は閉じられます。
その後この本に関する記述は抽象度をまします。「虚無の穴が不気味に大きくなってゆく」「思考しないことの流れ」「テキストはわれわれの所有していたものを次々と奪い取っていく」...。作品の最後ではもうこれ以上作品が続き得るかという疑念が沸き起こってきます。
そして、ついには「存在しないこと」は否定として存在することさえやめてしまうのです。文章の意味が失われると残るのは構文のみです。しかしその文法装置さえしまいには空中分解してしまい、文章の途中、単語の途中でついにこの小説は終わってしまうのです(とまあちょっとだけ書いてみましたが、やはり徒労に終ったのでしょうね?)。
でも、実際には存在し得ない小説を仮想することこそ、この本の真価といえるでしょう。しかもなぜこのような小説がこの世に存在するかという意味付けもしっかりと述べられています。要するに、小説家が誠実さを究極までに追求したときに必然的に生まれる小説は、まさにこのようなものであるということです。小説家はありもしないことを書かなくてはならないのですが、もしそのような行為に良心の呵責を感じるような小説家が万一存在したならば、彼の取るべき道は2つだけ、筆を折るか、あるいは「とどのつまりは何も無い」小説を書くかということなのです。
このような小説を書く小説家の誠実さについて論じながらレムは、「私はそのような意味での誠実さからはいちばん遠いのだ」と含み笑いしていることでしょう、小説家が誠実さを求めることは、レムの行なっている「ありもしない小説をでっち上げる」行為とちょうど正反対であるからなのです。
ところで、この世に存在しない小説の書評をした本を取り上げて、それをまた書評している僕自身の誠実さはいったいどうなっているのでしょうか? まあ、この「完全な真空」という本が存在しないのならば、それこそ賞賛に値するほどの不誠実さとでもいえるでしょうが、僕はまだまだ....
あるいは別の書評では、知能というものに関して、人間の知能の絶対性というものに強い懐疑を示します。そしてこれは、「完全な真空」以外の彼の書物にも見られる、一貫した態度のようです。人工知能ということばは、最近ではごく当たり前に使われることばとなってきたのですが、その際、知能は人間の頭脳こそが唯一もっているものであるということは、当然のこと、暗黙の了解事項であるように僕には感じられます。
「ソラリス」のテ−マ自体がそうであったように、レムはいつも人間のもっているものが知能として絶対唯一であるということへの疑問を常に提示しています。それどころか、この本を読むと人間の知能などは偶然の産物なのだという声さえ、極めて皮肉的かつ間接的ではありますが、聞こえてきます。
この本が書かれたのがなんと 1971 年ですから(日本語訳が出たのは 1989 年)、その後10年くらいたって、いわゆるサイバ−パンクといわれる新しい潮流が生まれて、人間の脳の神経細胞のクロ−ズアップ、たとえば、直接、神経細胞をメディアとしてコミュニケ−ションするという考えなどが生まれたわけです。次に紹介する架空書物評などを読むと、この本が今から20年も前に書かれたとは信じられない気がします。
「我は下僕ならずや」では、現実世界からはまったく切り離された神経細胞における電気パルスの伝達でのみ構成される世界というものを、さらに独立させ、純粋化した世界を描いています。キーワードはパーソネティクス(理性ある生物の人工生産)なのだそうです。そのような世界を小説として描いているのではなく、実際にそのような世界を研究室の計算機内に作り上げたドブ教授がこの架空小説の著者なのです。
このことについては、人間が住んでいるこの世というものが実は偶然の産物であり、数学的な世界の中にも、人間世界とまったく同じような現象が起こり得るということをしつように述べています。偶然この世は3次元なのですが、彼ら「住人」の住む数学的世界ではそれが任意に(ドブ教授)設定することができるというのです。時間の進み具合も設定できます。ある種の具体化をとげた数学は、完全に実体を持たぬほどに精神化した知性の生活空間となりえたのです。
さらにレムは、この世や人間に特有なさまざまな概念、たとえば、意識、言語、進化などに関して、その脆弱性(もろくて弱いということ)を追及し、そして計算機の中に閉じ込められた世界でも同様の概念が存在するというのです。
この架空小説が最大に盛り上がるのは、「住人」たちの、創造主(つまりこの架空小説を書いているドブ教授)に関する議論です。何人かの「住人」たちが、一体創造主はいるのかいないのか、いるのならば、今の我々とどういう関係にあるのかということを話し合うのです。おもしろいのは、彼らの世界を述べているようで、いつの間にか、実は我々人間自身の問題と完全にオーバーラップしてくることです。
レムは実は計算機の中の人間が作り出した世界に生きる知的生命体を描きながら、実は、我々もまた上のレベルにある何者か(創造主)に操られているというような循環をも同時に描いているのでしょう。
知能機械といっても、人がもっているような知能だけを相手にしているのではもう古いのかもしれません。50 年先500 年先をにらんで生きていく人は、ソラリスの海やサイバーパンクやパーソネティクスまでをも包括したものとして、知能というものをイメージしていかねばならないのでしょう。
というわけで、本連載でも、総力を込めてというか、脱線しまくってというか、次回には、毛色の全然違う未知の領域に踏み込もうと思います。タイトルは、「超能力大実験:ここにも超能力者が!」(仮称)です。(こりゃとんだことになりそうだと感じつつ)来月をお楽しみに!